3文(もん)コラム by BON局長

BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。

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縁起と"新しいこと"

"縁があってこそ、初めて起こる"
仏教の教理の核心根幹である"縁起"です。


美しい鳥の歌声を聴くためには、"鳥"がいて、"空気"がなければいけないし、時に合わせて"耳(聴力)"を持った私がここに来ていなければなりません。
このように"縁"があってこそ、鳥の歌声が聴けるのだから、"縁"は実に重要です。


"縁"を"条件"という言葉に置き換えても、まったく不自然ではありません。
すべては"条件"が維持される範囲でだけ存在するのであって、"条件"が変われば異なってきます。


だからどんなことでも"不変の姿"というものはなく、ただ"縁"によって変わるだけです。
これを"無常"と言いますが、これがややもすると"虚無主義"、ひいては"無神論"の根幹になったりもします。



虚無主義の克服


無常の観点を変えてみると、執着から脱し、一瞬の機会をつかむ積極的な行動の出発点として見ることができます。
鳥の歌声が聴こえないと言って、わざわざ鳥を捜し、続けてその歌声を聴こうと鳥を捕まえて家に持ち帰るのは'執着'です。
すべての"煩悩"がまさにここから始まったのです。


鳥との縁が終わったら、涼しい山の風を感じれば良いのです。
風に当たる縁も終わったら、次は綺麗な空気を吸いながら自分が歌えば良いのです。
つまり、時と条件に従って"新しいこと"を行なえば良いのです。
これが鄭明析(チョン·ミョンソク)牧師が強調する"瞬間の時を逃さないこと、瞬間の機会をつかむ生"と見ることができるでしょう。
執着せず、瞬間瞬間の機会をつかんで'新しいこと'を行なうことこそ、虚無主義を克服する最も完璧な方法だと思います。



無神論を超えて...


すべてのことが"縁によって変わり、循環するだけであり、絶対的存在、神はいないのだ"という立場の無神論は、神様についてちゃんと知らない結果です。


"先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている...
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。"


神様こそ、過去について'執着'せず、絶え間なく変化する存在でいらっしゃいます。
ただ、その民を創造され、愛する関係で接しようとされるその遠大な"思い(愛)"だけは変わりません。


人々が"神様が神様のために神様を賛美させるために造った"愛の対象であることだけは不変であり、その対象に接して、共にする方式と水準は変化し続けます。

よく見てみると、新しい時代、新しい縁、時代に送られた方という"条件"が合った時、天の新しいことは始まり、また始まるでしょう。
時に従って"縁を捜して結べば、初めて神様の世界が自分の中で起きる"ということです。


それなのに新しい時代を見ることが出来ず、先の事だけ思い出し、昔の事ばかり考えるから、新しいことを行なわれる神様を見つけられず、見ることができず、ついには無神論にまで至るのです。


変わらないものがないから、絶対的な存在者もいないのではなく、絶えず変化し、絶対的な神が存在するということです。 



神様との縁


神様についてちゃんと分かって、永遠な縁を結び、瞬間瞬間行なわれる新しいことに参加して、その方を賛美し愛して生きる人生こそ、決して虚しくない人生、最も理想的な生を生きる成功人生です。


袖触れ合うだけでも縁なのに
肌が擦れ合ったら縁だけだろうか


袖触れ合ったら十年の縁
肌が触れ合ったら百年の縁
心が触れ合ったら千年の間、暮らさなければ


あぁ、それでは
神様と触れ合ったら
いったい何年を共に暮らさなければならないと言うのか
何年が何なのか
永遠な縁となり暮らすべきだ

                                                -詩人 鄭明析 '縁'


永遠な縁となり(共に新しいことをし)、生きなければなりません。

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날짜
2019/05/28